宝塚歌劇の歩み(1934年-1950年)

世界に忍び寄る戦争の足音、暗い時代を勇気づける作品を世に送り出す

1946年に宝塚大劇場再開、小林一三翁を囲んで出演者全員の記念撮影 1946年に宝塚大劇場再開、小林一三翁を囲んで出演者全員の記念撮影

人々が自由な空気を謳歌していた1930年代、宝塚レビューは一つの完成形を迎えます。歌、ダンス、化粧など、何もかもが斬新でオリジナリティにあふれたステージは、やがて海を越えて広がり、ドイツやイタリア、アメリカなど各国で公演が行われました。

しかし、時代は世界的な恐慌を経て、戦争に突入。日本も例外ではなく、アメリカと開戦。そんな中、レビューの上演は中止されますが、歌劇団は奉仕隊を組織して各地で慰問公演を行いました。終戦間近の1944年3月には、宝塚大劇場と東京宝塚劇場が閉鎖。戦後も両劇場の接収が解かれるまで時を要しましたが、その間、宝塚歌劇は日本劇場や帝国劇場で公演を行い、暗い時代を勇気づける明るい作品を世に送り出し続けました。   

西暦(元号)
世の中の動き
主な出来事
1934年(昭和9年)
東京での本拠地・東京宝塚劇場が開場
前年8月に大劇場で上演された白井鐵造の大レビュー『花詩集』がその幕開きを飾った。
1935年(昭和10年)
宝塚大劇場火災で内部を焼失
1月25日、舞台裏から出火。昼夜兼行で復旧工事を進め、4月1日星組公演から再開した。工事中は中劇場にて公演。
1936年(昭和11年)
2・26事件
月刊雑誌「宝塚グラフ」創刊
1938年(昭和13年)
第一回ヨーロッパ公演に出発
「日独伊親善芸術使節団」としてドイツ・ポーランド・イタリアの26都市を巡演し、翌年3月に帰国した。
1939年(昭和14年)
第2次世界大戦始まる
星組廃止

アメリカ公演
「訪米芸術使節団」としてホノルルと米本土9ヵ所を巡演。

宝塚音楽歌劇学校を「宝塚音楽舞踊学校」と改称、少女歌劇団と分離

研究科を廃止し、本科は1年制を2年制に。学校の生徒は興行団体に加入させないこととなる。
1940年(昭和15年) 時局を考慮し、「宝塚グラフ」「歌劇」が相次いで休刊

宝塚歌劇音楽奉仕隊を結成
唱舞奉仕隊と改称。病院や工場を慰問した。

「宝塚少女歌劇団」を「宝塚歌劇団」と改称
1941年(昭和16年)
太平洋戦争始まる
 
1942年(昭和17年) 第一回満州(現・中国東北)公演
満州各地と朝鮮半島の京城で公演。
1944年(昭和19年) 宝塚大劇場と東京宝塚劇場に閉鎖命令
東京宝塚劇場は花組公演の舞台稽古を中止。雪組宝塚大劇場公演は打ち切りとなった。

宝塚歌劇団創立30周年記念式
1945年(昭和20年)
ポツダム宣言受諾
5月、 「宝塚映画劇場」で公演開始
宝塚ファミリーランド立体動物園の位置にあった旧・宝塚キネマ館での小公演が許可される。宝塚映画劇場は11月に「宝塚小劇場」と改称された。

9月、アメリカ軍が宝塚に進駐、大劇場一帯を接収

「宝塚小劇場」が焼失、公演を中止
1946年(昭和21年) 宝塚新温泉・大劇場など接収を解除

宝塚音楽舞踊学校を「宝塚音楽学校」と改称、予科1年制となる

月刊雑誌「歌劇」復刊

宝塚大劇場の公演が再開
春日野八千代を組長とする雪組公演『カルメン』『春のをどり—愛の夢—』で再開。東京宝塚劇場は進駐軍に接収され、「アーニー・パイル劇場」と呼ばれていた。
1947年(昭和22年) 月刊雑誌「宝塚グラフ」復刊

有楽町・日本劇場で戦後初の東京公演
作品は雪組による『宝塚おどり絵』と『ファイン・ロマンス』。
1948年(昭和23年) 江東劇場でも公演開始、日劇と合わせて年6回東京で公演

星組が復活

1939年に廃止されてから10年ぶりに四組が揃う。
1950年(昭和25年) 東京・帝国劇場での公演再開